議論する力がすごく必要な時代

よく日本人は議論することが下手だと言われる。
今日はそんなことを少し考えてみたい。

日本人は素晴らしい教育(あえてこう言っています)を受け、大きな不自由を受けることもなく、ある程度安全に育った。

相手に合わせることが重視される、日本の「同調圧力」「空気を読む」といった独特な考え方に根差したものが大きな影響を与えていて、日本人は「会話」は得意かもしれないが、「対話」はできないと感じる。

つまり、異なる意見に対して、異常なほどの嫌悪感を示すのだ。
日本に対して海外では人種や宗教などバックグランドもまちまちで、一つの共通したものなどないに等しい。
そんな環境が自然なのだから、否定していたら前に進むこともない。

しかし、日本ではムラ社会みんなが同じ考えであることを前提としているから、同じ考えの者同士は徒党を組んで、
異なる意見の者を攻撃する。みんなが賛成なのに反対する「空気が読めない奴」は仲間外れ。
意見が違う=和を乱す人であり、敵とみなされる。
そのため、自分と違うものは不正解をし、認めることはなく、そこに残るのはコミュニケーションコストだけである。

これだけダイバーシティが叫ばれる世の中において、日本だけはまだこのレベルでの馴れ合いしかできない。
日本人はどのようにグローバル社会でのプレゼンスを保つべきか?

多様性の中で、妥当解を導くプロセスを学ぶことは必要かもしれない。

正解が一つとは限らず、様々なものの中で決断しなくてはならない中で、
相手を否定していても仕方がない。
ならば、その環境の中で選択肢を洗い出し、評価軸に乗っけたときに、
最も妥当な解を判断して実行できる能力が必要だと考えられる。

世界で戦うために、という付け焼刃的なティップス的なものでなく、
「本質」として必要なものにそろそろ目を向けません?
気づいたらあっという間に市場価値のない人種になる気もします。